どうもはしもとです。
今日は劣等感について思うところがあるのでそれについて話したいと思います。
劣等感を強く感じている時ってとても辛いですよね。
周りのすべての人が、自分より優れているように思えますし、何より自分がヘボすぎて死にたくなるんですよね。
人のことが羨ましくてしょうがない。。
妬み恨みばかり感じてしまう。。
そしてそんな自分にさらに嫌気がさす。。
なぜ私がこのような話をするのか?というと、私自身がすごい劣等感に悩まされてきたからです。
それはもう、つい最近まで。
同僚や後輩はどんどん出世していくのに、何で俺だけこんなクソなんだろう・・
世の中の同世代の奴らは有名になって、チヤホヤされて、大金を稼いでいるのに、俺は何で未だにロクな貯金もないんだろう・・。
こんな風に、いつも他の人と比べて激しい嫉妬を感じていました。
なので、この辛さ、キツさはよく分かるつもりです。
なので、劣等感については今まで結構よく考えてきました。
近頃いろんな方と関わったり教わったりしてきた中で、私はどう生きればいいのか?ある考えに至りました。
それは「劣等感を抱く必要すら無くなる」というような生き方です。
これが絶対に正解だとは思いませんが、劣等感を抱き苦しむあなたが、少しでも楽になってくれればなと強く思うのでシェアさせていただこうと思います。
なぜ劣等感を抱くことになるのか?

そもそも、どうして私たちは劣等感を抱くことになってしまうのでしょう?
なぜこんな苦しい思いをしなければならないのか?
まず、「劣等感」の意味ですが、「人より劣っていると感じていること」と言うことです。
自分以外の誰かより、ある部分で(あるいは全て)劣っていると感じている状態。
これはつまり、相手と自分を比較した時に、どちらの方が優れていて、どちらの方が劣っている という価値判断をしていると言うことです。
その価値判断をしているのは誰か?
それは自分です。
つまり劣等感とは、主観的なものです。
「いやいや、学校でも会社でも、順位をつけられるじゃないか!それって優劣の価値判断では?」
と思う方もいるかと思います。
確かに社会に生きている時点で、何らかの順位や序列はつきます。
しかしそれは、あくまでも会社なら会社、学校なら学校と言う文脈の中での序列なわけであって、あなたの人間的な優劣を決めたものではないのです。
「いやいや、そんなこと言ったって気休めにもならんよ。そんな慰めはいくらでも聞いてきたよ。
でも結局、劣っている人間は成功者になれないじゃないか!」
そう思いますか?
少なくとも、今までの私はそう考えたでしょう。
ですが、ここがポイントです。
この「成功」という言葉。これがキーワードです。
そう、人は「成功」したいから、劣等感を抱くのです。
成功したいのに、思うようにならない。
そこで、世間的に”成功者”と呼ばれる人間を見て、嫉妬をする。
これが劣等感の正体です。
問題にしたいのは、その「成功」は本当にあなたの成功か?ということです。
もっといえば、
”あなたが”成功したい
と考えている時点で、劣等感から逃れられないです。
私たちは、みんな「俺が!」「私が!」「成功したい!」と言います。
私もそうでした。
でも、問題は「何のために」?成功したいんですか?ということなのです。
と聞くと、だいたいこう答えます。
「私が成功することで、多くの人を救いたいからです」
わかります。多分そう答えるしかないでしょう。
でもですねえ、気づいたんですよ。それはほぼ後付けだと。
私もそうですよ。なんかそういう、聞こえのいい言葉で、それらしい動機があるように見せる。取繕う。
「人のためにやるのが成功者の条件だ!」て自己啓発本には必ず書いてありますもんね。
確かに人にためになることが大事なのは間違いありませんが、
でも、あなたや私が必ずしも成功者になる必要はないはずです。
俗に言う成功者というものにならなくても、救いたい人は救えるということなのですよ。
救いたいんだったらいますぐ救えばいい。
もし、本気でそれをやろうと思わないのなら、ズレていると言わざるをえません。
偉そうに言ってますけど、私自身がもっともそれです。
私は「世界中の人を救いたい」みたいなことを理由にして、取り繕ってきました。本当は自分がチヤホヤされたいだけなのに。
「いや、俺はもっと多くの人を。。。だから成功する必要がある。。。」とか思うなら、それは 我欲 です。
結局何が言いたいか。
劣等感を抱く原因は、我欲が動機の発端だから。です。
自分の欲で、こうなりたい、ああなりたい、だけど思うようにいかない。
こうなりたいと思って憧れたものは、欲望を刺激する見世物です。
それを見て羨ましいと思う。嫉妬する。で、自分が劣っていると主観的に感じる。
こういうことです。
よく、自己啓発本には、自分が成功しないと人に分け与えられない、だからあなたが成功しよう!みたいなこと書いてますが、あれは嘘です。
我欲を正当化する言い訳です。
じゃあ何でそういう、稼ごう!儲けよう!成功しよう!みたいな自己啓発本ばっかりなのかということですが、あれは欧米の物質主義の価値観だからです。
今の世界の価値観は、欧米で発展してきた資本主義です。
ようは、カネとモノが全てだということです。
本来、日本人はそういう価値観ではないです。でも戦争で負けてアメリカに事実上支配されました。
だからそういう物質主義の価値観が「真理」だと刷り込まれてきたのです。
これ以上すると陰謀論みたいになるのでやめときますが、欧米の価値観で決められた成功とされるものは、我欲を煽るだけのまやかしなのです。
人よりもお金を持っていれば勝ち、人よりもモノを持っていれば勝ち、そういう勝ち負けが自分の優劣だと思い込まされているに過ぎないということです。
奪っても劣等感から逃れられない

今回の話をしたいと思ったのは、ある記事が気になったからでした。
その記事は、In Deep というブログの
植物が「緑色」であり続ける理由がわかった! そして人間の生活システムの完成は「植物との完全な共生」にあるのかもしれないことも
というやつです。
この記事の内容をざっくりまとめると次のような話になります。
- 植物は全て緑色をしている
- しかし実は緑というのは、光合成をする上で効率が悪い
- その理由は、光のスペクトルの中で緑色付近が最も強い波長であり、これを利用していないということだから
- 緑色に見えるということは、緑の光を反射しているーーつまり、緑色の光を捨てているということ
- 光合成を最も効率よくするためには、色を吸収する黒が最も合理的なはず
- しかし植物がそうしないのはなぜか?
こういう内容です。
そしてこのことから、この記事の筆者は次のようなことを考察します。
- 植物は緑色をしていることで、エネルギー効率を非常に下げている
- だから、エネルギーの大部分は自己の成長には使われず、植物の体内に残している
- わざわざ自分たちの繁栄を妨げることを選択している。しかしそれによって助かる存在がある
- それは「人間」
- だから、植物は人間と共生関係を築くために存在しているのではないか?
- ほぼ全ての人が、植物の緑を美しいと感じ、癒される
- それは植物と人間が一体のものだからではないか?
- つまり、植物と人間はお互いを引き立てる役割がある
というものです。
この話自体は、ちょっと飛躍した考えの部分もあるので興味があったらお読みいただければと思うんですが、大事なのは、この話は人間と植物の関係だけに当てはまるものではないのではないか?
ということです。
この筆者が言うように、植物がもっと効率よく光合成し、グングン育っていったらとっくに地球を征服していると思います。
効率よく、大量のエネルギーを使って。自分らさえ繁栄できれば良し。
これって何かに似てませんか?
あなたがどう思ったかはわかりませんが、私は「これってアメリカや今の中国に似てる」そう感じたのです。
仮に、植物が黒かったとして、それこそ驚異的な繁殖力で地球を覆い尽くしたとします。
確かにその方が短期であっという間に繁栄できるんでしょう。
ですが、それだとすぐに終わりがくると思いませんか?
植物がエネルギーを自己成長のためだけに使ったら、土壌のエネルギーはすぐになくなります。
他の生物が生きられなくなります。
そうなると結局、破滅しませんかね。
植物は食べても栄養にならないので誰も食べません。邪魔なのでできるだけ排除しようとします。
要するに共生が全くできなくなるのです。
でも、実際にはそうならなかった。
植物は他の生物、ひいては人間を引き立てることを選んだからです。
結果的に、植物は人間にとってなくてはならないもの。だから今日まで繁栄しています。
これって人間と人間にも同じことがいえるのでは?
というのが、今回言いたいことなのです。
欧米的な物量主義である、アメリカとか中国とか。日本も今はそうなってます。
これって、「黒い植物」がやっているのと同じなのでは?と思うわけです。
みんな我欲で、お互いから奪い合っているに過ぎません。
仮にこの奪い合いで勝ったとしても、黒い植物のように未来はありません。
欧米的な奪い合い社会はもうじき終わります。
私たちが「成功者」だと思って一生懸命追いかけているのは、この「黒い植物」に他ならぬのです。
つまり、「あなたが成功したい」と考えることは、黒い植物を同じことだと、私は思うわけです。
劣等感を抱かずに生きるには?
先ほど紹介した記事の中で、色の補色関係という話もありました。
反対色というのがあって、反対の関係の色がお互いに引き立てる関係だそうです。
余談ですが、緑の反対色は赤。この筆者さんは、植物の緑が人間の血の赤を引き立てているんではないか?と考察してました。
話が劣等感からだいぶ逸れてきましたが、結局私たちが生きるということに、どんな意味づけをするかと言うことだと思うのです。
我欲があって、それを達成することが人生の目的だと勘違いしている。
それがうまくいかないから、人より劣っていると考え、苦しむ。これが劣等感だと。
人より勝ることは欧米的価値観であり、それを追求しても破滅するだけだよ〜と。
ここまではこういう話です。
でもですね、今これを読んでくれているあなたは、ほとんど日本人だと思います。
我々は日本人です。
日本人ってもともと、今の社会みたいな、持ってる奴がエラいみたいな人々だったでしょうか?
もともと資源がそんなに多くはない国ですし、もったいないみたいな精神も昔からあります。
日本人ほど協調性があって、和を重んじる人々はいないんじゃないでしょうか。
何が言いたいかというと、日本人はもともと、”共生”して生きるということを知っていて、実践していたはずだということです。
だから、欧米的な価値観は本来「性に合わない」んじゃないかと。
だから成功を求めても求めても、実際に成功してもずっと苦しいまま。
何かが違うと感じている。
欧米の人たちが悪いということではありません。
あれは彼らの役割です。
でも、日本人の役割ではないと思うのです。
役割じゃないことを無理にやろうとするから、苦しいんじゃないですか?
ここで先ほどの、反対色の話ですが、
私たち個人個人も、それぞれのカラーって持ってますよね。
だから、反対色の人を引き立てるように生きればいいんじゃないかと思ったわけです。
私たちは共生する国民なのです。
もともと、相手を引き立てて共存するのが日本人だと思うのです。
私は正直、そっちの方がしっくりくるんですよね〜
そのように相手を引き立てることをして共生すれば、それこそ劣等感なんて抱く必要は一切なくなるんじゃないかなあ。
だって、自分のカラーを使って引き立てられるのは反対色の人だけだし、逆もまたしかりなのです。
お互いがお互いを補えるのです。
そこに「優劣・勝ち負け」は存在しません。
きちんと引き立てるべき人を引き立ててあげれば、当然その分お金とか衣食住は手に入るでしょう。
それは共生するためにあなたが必要だからです。
そこに我欲が入るから、いろいろと間違うのです。
自分のカラーじゃないことをしようとしてしまう ということですね。
だから、最小限のお金とモノで満足しましょう とか狭いはなしではありません。
必要なものは必要なだけ、手に入るのです。だから、それが多い少ないで劣等感を抱くことは間違いなのです。
まとめ

自分のことだとすぐがんばれなくなるけど、誰かの頼みだったりお願いされたことならとことんがんばれた という経験がある人は多いんじゃないでしょうか?
これはもともと、日本人が共生で生きる国民であることの現れですね。
なんでも引き受けようということではありません。
あくまでも自分のカラーでいいのです。無理しなくていいのです。
人のためにやると気持ちいいんですよね。
それがいつの間にか、我欲の価値観で真っ黒に塗りつぶされている。
自分のカラーもわからなくなっている。だから、無理してまやかしの成功を求めて、劣等感となるのです。
本当はすごいシンプルなんだろうな〜と思います。
自分の能力(カラー)で、反対色の人を手助けするだけなんですから。
あれこれ、成功の法則なんかを求めるより、自分の存在がなんなのかを知ることの方が、多分よっぽど大事なことだと思うわけです。
それさえわかれば、劣等感なんて言葉すら忘れ去っていることでしょう。
この記事が、少しでもあなたの手助けとなってくれたら、このお役目に感謝したいと思います。
ありがとうございます。弥栄
橋本なおひろ
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